寡黙そうな表情をしたkitajさんはいったいどのような画家だったのか僕の英語力ではすべてを知ることができないのだけど、僕がどのように感じているかをまとめるためにドイツで開催された回顧展に行ってきました。
ベルリンのjyuolish museamはすこし寂しい雰囲気の建物と冬の寒さが合わさってさらに寂しさを演出しているかのようでした。
まず、kitajさんの魅力を支えているのは圧倒的なデッサン力につきると思うのですがそのデッサン力が時期によって大きく画家の表現の足枷になったりするのが、画家として評価が難しくなっている理由のひとつにもなっているように思います。
Kitajさんの作品は大きく勝手に分類すると3つに分類されると思う。
1つ目の時期は構成時代。初期にあたるこの時期は構成力とデッサン力が一番バランスのとれていた時期で、この時期の絵を好きな人は多いのではないでしょうか。
ひとつ大きな特徴は筆にオイルをつけずにこすりつけるようにしてかすれた表現を多用して全体的にマットな表面の仕上げにしています。デッサン力があることで一発描きで下書きの線を元に仕上げていきます。下書きはきっと細めの木炭で描いていたので、年数をかさねて木炭がキャンバスからはがれ落ちている箇所が目立ちます。この時代の大きな発明は自分のコラージュした写真を再構成してひとつの画面にして、キャンバスの四角い画面の空間からの離脱がテーマにあったと思います。
1つのキャンバスの中で違うサイズの作品が共存することでキャンバスと言う概念からひとつの壁と言う概念で平面を扱い空間にひろがりをみせようとしていることが見て取れます。またキュビズムの影響(といってもマティスとピカソを良く研究していてる)をうまく構成に用いて立体的に見えるところと平面的に見えるところを共存させて絵によっては完璧なバランスで作品がなりたっている。また、kitajの特徴としてメッセージをつめこみひとつの物語として画面を構成していて、視線をなんども循環させつつ、絵にかたらせてくる。
さて、Kitajのこの一連の作品は人を感動させるかというと、答えは否定的になってしまう。なぜなら、あまりに説明的すぎるし、色彩感覚や構成力はすばらしいのだけど僕が考える油絵の魅力である絵具の重層的な表現があまりんも少なすぎてペラペラの色面に見えてしまう。上からもう一色色を重ねてしまいたいとさえ思ってしまう。否定的なことを描いてしまっていますが大前提としてこんな絵をかけることはすごいのだけど。そして、コラージュで構成されている画面の魅力は、ものを収集する癖がある人にはよくわかる良さだとおもう。
しかし、絵画の魅力、特に油絵の具の魅力と言うのはそこではないのではないかというのが最近の僕の考えです。特に近代、パソコンである程度なんでもつくれてしまう時代では、kitajの初期の絵はひょっとしたらパソコンがあればすぐにつくれてしまう部分もあるかもしれない淡白な色彩に見えてしまう。当然、先駆者として、手描きでそのような表現に到達しているkitajはすごいのだけど。
次は2つ目の時期はしみ込み時代です。
今まで普通にキャンバスに地塗りをして使っていたのを生のキャンバスを使い目処めをしていないのでどんどんしみ込む表現を使い始めます。
僕の確信に近い推測ですが本人も色の淡白さの解消を課題においてしみ込む表現で色彩(空間)の問題を解消使用としたのでしょう。
この時代においても安定したデッサン力で素晴らしい作品を残しますが、残念ながらこの表現方法も本人の資質とうまくマッチングできていないことの方がおおかったように感じます。と、いうのは、人物をしっかりデッサンするのはいいことなのですがしみ込む絵具をコントロールしたいがあまり人物の輪郭が固くなり、せっかくすばらしい線がかけるのにその要素が台無しになってしまっているように思います。また、キャンバスがきっと生のキャンバスで滑りが悪いのでどうしてもはやい線が描けないので線は木炭で引くことがおおくなり線が動きにくい表現になっているような気がします。
さて、そこでkitajが考えたのが第3の時期である「スロトーク」の時代です。
たぶん後輩だと思ってたホックニーが爆発的に売れ、その影響を受けてしまった時代だと思います。この2人はロンドンで先輩、後輩だった関係がホックニーがロスに移住してから逆転してしまった気がします。しかし、kitajに影響されていた時代のホックニーの作品のほうが僕は好きなのですが、、。
この時期から大胆なストロークで輪郭線を無視して勢いで描き始めます。この時期も最初の方は良かったのですが年齢とともに集中力もおちはじめ、今までの画力をささえてきたデッサン力が崩壊していきます。たしかにデッサン力を捨ててひとつの表現に突き進むのであれば良いのですがkitajさんはまじめすぎて今までの自分を引きづり続けます。と、ここからは悲劇としかいいようがない作品が続いていきます。きっちりとした構成も無く、デッサン力も崩壊しつつ、色彩もなぜかコントロールできなくなってきて。晩年にはアルツハイマーを患って。
しかし、僕は感動に近いものを得たわけです。全くうまく画面をつくれていなくても常に自分を高めようとしていく結果であることに。
画家には自分のスタイルに満足してなかなかそこから変化できない作家もいるけれどkitajはつねにすこしづつだけど前に進もうとしている感じとその進んだ先でうまく行かないままなところも心にしみました。まだ、余りに体力のない晩年のkitajの味わい方がうまくわからないけれど、どんな世界をみたかったのかは理解できたし、さらに先の表現の可能性を感じました。